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「子どもたちの未来や安全のために」という理由は通用させてはならない

 自治組織の会合で、何度も壊れて、とうとう仮撤去していた共用施設のドア(扉)を修理するか、それとも、すっかり撤去してしまおうかとの話合いが持たれた。

 そこに出席した幼い子ども連れの女性が、感情たっぷりに訴える「”未来ある子どもの安全のため”に不審者を防ぐためどうしてもドアを修理して設置してください」と。

 その発言を聞いて、過去の経緯をしっている僕を含めた数人は思わず苦笑してしまった。
 しかし、経緯を知っているものも、雰囲気に呑まれて沈黙してしまったため、経緯を知らない、たまたま出席した方々からは賛同を得られ、結局は、修理し再度設置されることに決まった。各世帯の経済的負担も少なく、近隣トラブルを避けたいという思惑もあったように思う。

 過去の経緯というのは、「何度も壊れて、とうとう仮撤去」するに至ったことを指して、風当りの強い場所で、風圧でドアが勢いよく開閉するものだから壊れてしまったもので、手足や指などを挟もうものならば、大怪我も懸念されるので、そのときも話合いが持たれ、構造的に対処が難しことから仮撤去された。
 この話合いのとき、出席していた別の女性が主張した理由が、「”子どもたちの安全のために”どうしても早急に撤去してほしい」というものだった。
 この女性の主張は、実態と反映しており、もっともだと、皆、納得した。

 ところがだ、今回の、修理して再設置が決まるにあたっては、”子どもたちの安全のために”撤去してほしいと主張していた女性が欠席したこともあり、”子どもたちの安全のために”設置してほしいという、どちらケースにおいても同じ理由になんだけれども、危険性は考慮されることはなく、とういうか、考慮させない雰囲気を作り出されてしまった。

 再設置を求める理由として「不審者」も挙がられていたけど、誰でも通行可能なドアであり不審者かどうかも判別付かない分けで(僕などは、不審者と思われたくないので、顔を覚えてもらうために会合に出ているくらいなのに)、大きな理由にはならないと思う。

 つまり、「子どもたちの」ということにすれば、大抵は自己実現できるとう、いわば水戸黄門の印籠的な”手段”に使われているような気がして、最近は、例えば、女性や、選挙の候補者などが「子どもたちの・・・」と主張しているのを耳にすると、まずは疑いの目で見てしまう自分がいる。

 ”ずるい”というか、”誤魔化している”ように強く感じてならない。

 弱いものを利用する卑怯なことだと思ってならない。