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自分との意見の違いにイラだつ

 読売新聞社がネット上で行っている発言小町を眺めてしまった。
 「若い頃離婚して、成人した娘から未払いの養育費を払うように請求」とのスレッドを眺め、僕との考えの違いのある意見が見て苛立った。

 もっとも、法や、道徳に背かない限り、多様な考え方があってよいと常々思っているものの、やはり、自分と異なる考え方について、拒絶感や、反論を強く抱いたが、投稿はしていない。
 
 内容としては、
 「成人した娘から、法的義務のない養育費1,200万円を「一括」で払えと請求されており、使途は受かってもいない大学進学のためという。
 なぜ、一括なのか、その時々の状況に応じた分割では、駄目なのかとか、交渉でいろいろ話合われているみたいだが、娘からの説明は、乏しい具体性の無い内容。
 でも、トピ主は、元配偶者の不誠実が原因での離婚とはいえ、20数年間、不憫な思いをさせたとの思いもあり600万円程度は、できる限り支援したとのこと。
 しかし、相手は、一括で1,200万円を求めており、交渉が難航している。」

 といったもので、僕は、トピ主の気が済むのなら600万円程度の支援で、以後、打ち切りでよいのではとの考えで、概ね、大勢意見に沿っていると思える。

 少数意見の方々も、別に間違っているとは思わない。これには、正解なんてものはなく、あくまでも参考意見であり、娘の気持ちを推し量ったり、考え方を見たいのだと思う。

 このなかで、一部の少数意見の方々の文章表現が、本当に嫌だ。
 例えば、「当たり前のこと」「普通のこと」「人として当然」「愛情が足りない」「常識として」などの類だ。

 投稿者個人として、どう思うのかは結構なことだけど、公の場でこの表現を用いるのは、どうかと思う。裏返せば「あなたは、当たり前ではないヒト」「あなたは普通ではないヒト」「ヒトとして当然ではない」「子どもを愛していないヒト」「非常識なヒト」とも読みとれ、不快感を持ってしまった。
 心の中に、差別的というか、優越感というか、相手を軽んじているというか、そのような機微が窺えてしまう。

 変な圧力のかかっていない公平な意見で、かつ、多数者の意見の中での表現であるとか、法やその解釈で決まっているとかであれば「まぁ、そうなのか」と思わないでもないが。

 このような、表現を使うヒトほど、多数意見に耳を傾ける必要があると感じる。

 なんか、本当に安易に、用いているような気がしてならない。

 僕は、そういった表現を慎重に使わず、多用し相手に差別感を与えたり、軽んじる方とは、距離を置くことを、随分と歳を重ねてから、学びました。
 
 よって、排除すべき、意見も当然あってしかるべきだと思うのです(尊重はするが、同調(意)しない勇気を持つこと)。
 あくまでも、自己責任ですけど。