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ALS患者嘱託殺人事件について思うこと

 7月24日の読売新聞に筋萎縮性側索硬化症(ALS)で在宅介護を受けていた京都市の女性患者に依頼され、薬物を投与して殺害したとして2人の医師が逮捕されたとの記事が掲載された。

 

 このALS患者は、動かすことができて意思表示できるのは、眼球のみでパソコンを通してとのことで、胃瘻もされていたとのこと。

 各マスコミ報道を見る限り、長きにわたり「壊れていく体と心、来るべき死の苦しみと恐怖と日々を戦っています」(京都新聞HP)や「早く楽になりたい」「安楽死を受けることぐらい許してほしい」(患者ブログ・読売新聞掲載)との内容があり、また、患者本人のTwitterやブログを見ると、本当に、病状が重く「死」を望まれているのだなと思ってしまった。

 

 2人の医師は、この悲痛な訴えを見てSNS上で交流を持った。

 交流を重ねるうちに、患者の方から殺人行為に誘導されていったように感じられ、そして、実行した。法律上の違法性が問われることも認識していたとみられている。

 

 医師免許を持つ主治医では2人による見立てで下した決断だったのだろう。

結果として、主治医は、患者の心を救えなかったようだし、生きる希望も与えられなかったようだし、それは、おそらく超難題ではないだろうか?

 

 患者から百数十万円が口座に振り込まれたとあるが、この経緯を詳しく知りたいところだ。金目当ての報酬にしては、少ないように感じる。

 患者の決意の表れと、行動を促す意味合いがあるのではと捉えるのは、空想のし過ぎだろうか?

 

 ネット上の書き込みをみると、法整備を望む声も出ているが、とても慎重に丁寧に綿密に設計する必要があるように思える。生きることを望む者の希望を削ぐ危険性を孕んでいるように思える。

 日本社会は、何だかんだといって「KY」(空気を読んで、行動すること)を求める風潮が強い。

 もし、安楽死尊厳死の要件を定めて、それに合致した状態になったら、本来の自分の意思ではない行動をとらされる人や、それを押し付けてくる者(家族や関係者)が現れてくると思えるからだ。「みんなに申し訳ないから死にたい」「家族に迷惑だから死んでほしい」みたいな発想が許される法制度には、なってほしくない。

 

 今回の2人の医師がしたことは、殺人罪に問われて仕方がないと思う。

 患者がとった行動や置かれていた状況からして、「医療行為」の範疇に入るものとして、無罪になってほしいと思う。

 何か起きないと変われないこの社会で、不運にも、犠牲になってしまったように思えなくもない。

  この2人に医師を裁く裁判こそが、民意をより反映されることが期待できる「裁判員裁判」がふさわしいと思う。

  

 それから、マスコミ報道の偏りがひど過ぎないか?

 医師2人に理解を示すような記事が部分的でも見つからない。

 登場する識者も、批判するばかりで、記事の書きぶりも医師2人を悪者扱いだ。

 

 患者の残されたTwitterやブログを見で感じたことと、照らし合せてすごく違和感がしてならない。

 

 悲しいけれど、患者は、医師2人を犠牲にして、自身の望みをかなえたのだ。

 医師2人の真の戦いはこれからなのかもしれない。